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Now playing: Nicolaus Esterhazy Sinfonia - Symphony No. 3 in E-flat major, Op. 55, "Eroica" - Scherzo: Allegro Vivace
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大筋は『昭和人論』に書いたことと変わらない。ただ、これに付け加えておかなければならないのは、「アメリカ」というファクターである。明治維新以来、日本の若者が「熱く」なるのは「ナショナリズム」(それも「アメリカがらみ」)と相場が決まっている。明治維新を駆動したのは1853年のペリーの黒船による「砲艦外交」である。そのあと日本は西洋の文物制度を導入して、近代化してしまったので、「攘夷」の情念は「尊皇」の方に吸収されて消えてしまったように思っている方がいるかもしれないが、そんなことはない。日本人が「熱く」なるのはいつでも「攘夷的ナショナリズム」によってである。日清戦争以来の日本のアジア侵略は別にアジア隣国を憎み、これを収奪せんとしていたからではない。植民地化されているアジア諸国を統合し、近代化された軍隊によって「攘夷」を果たさなければならないというのは、幕末以来のグランドデザインである(最初にこのアイディアをぶちあげたのは坂本竜馬である)。私たちは日本軍というのをうっかり政府が政治的にコントロールしている「近代的暴力装置」だと思っているが、陸軍は実際にはひさしく「長州藩閥」が私物化していたのである。彼らが軍を私物化できたのは、「グランドデザイン」を正しく理解し、継承しているのは自分たち「志士の直系」だけだという強烈な選良意識がみなぎっていたからである。長州の根本的メンタリティは(桂小五郎から安部晋三まで)ずっと「尊皇攘夷」である。それが太平洋戦争まで続いた。敗戦で「尊皇攘夷」はいったん沈静化したが、60年安保闘争で「反米ナショナリズム」として復活した。それが60年代の高度成長の中にのみこまれる。日本人は「パイが拡大しているときは、ナショナリズムを忘れる」という根本的趨勢がある。そして、パイが縮み始めると、すぐに「尊皇攘夷」が出てくる。68年が「わかりにくい」のはパイが拡大して、人々が都市文化を享受し、その中でも若者たちのサブカルチャーかつてなく主導的になった時代に「反米ナショナリズム」が亢進したことの「つじつまが合わない」からである。68年のナショナリズムに火を点けたのは「ベトナム」である。インドシナの水田を焼くナパーム弾と前近代的な兵器で世界最強の軍事大国の世界最先端のテクノロジーと戦うベトナムの農民たちのうちに私たちは「ペリーの黒船を撃ち払う志士たち」や「本土決戦」の(果たされなかった)幻を見たのである。私たち日本人が出来なかったことを貧しいアジアの小国の人々が現に実行している。その日本人はベトナム戦争の後方基地を提供し、その軍需で潤っていた(朝鮮戦争のときもそうだった。私たちはアジアの同胞の血で経済成長を購ったのである)。その「恥」の感覚が1968年の学生たちの闘争の本質的な動機だったと私は思っている。上の文章でも書いたように、全共闘運動の目的は「日本を破壊すること」であった。「こんなろくでもない国はなくなった方がいいんだ」というようなすてばちな気分が1968年の若者たちにはあった。
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