2009年4月18日土曜日
石原は、歴史的に考えても満蒙は中国人の土地ではないし中国人は政治能力を持っていない、という発想を強烈に抱いていた。ところが、占領作戦を展開するにつれ、また中国人の政治能力の高さを見るにつけ、そうした考えの変更を余儀なくされたのである。
関東軍作戦参謀だった石原莞爾は、満洲事変勃発4日後の1931年9月22日の作戦会議で、これまでの「満洲」直接占領構想を放棄し、清朝皇帝だった薄儀(ふぎ)を頭首とする国家づくりへと考え方を変えた。それまでは石原は、歴史的に考えても満蒙は中国人の土地ではないし中国人は政治能力を持っていない、という発想を強烈に抱いていた。ところが、占領作戦を展開するにつれ、また中国人の政治能力の高さを見るにつけ、そうした考えの変更を余儀なくされたのである。
「五族協和」の内実…満洲国は「五族協和」を建前に、日・朝・漢・満・蒙の協和を目指したとされるが、この民族構成も一皮むけば、少数の日本人を頂点に、圧倒的多数の漢族を底辺に作られたピラミッド支配構造で、各民族相互の交流は非常に少なかった。つまり「五族協和」とは名ばかりで、実態は五民族が住み分けていた、というのが実情に近かった。
人口構成『満洲年鑑(昭和15年版)』に依拠して、満洲國の1937年12月末時点での民族別職業別人口構成を見てみよう。満洲国の総入口は約3667万人。うち最大多数の漢族が2973万人で全体の81%を占めている。第二位は満族でその数は425万人。全体の約12%を占める。第三位は蒙古族で、その数98万人、全体の3%弱。そして第四位は朝鮮族の93万人でこれまた3%弱。そして第五位が日本人で42万人、1%強である。
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