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2009年4月25日土曜日

なのでおいら、横田めぐみは北朝鮮のグランドマザーではないか? と思う。少なくとも、正哲か正雲が三代目を襲名する事になったら、母親である英姫が亡くなっている以上、後ろ盾になるのは彼女しかいないわけです。西太后みたいなもんだw





なのでおいら、横田めぐみは北朝鮮のグランドマザーではないか? と思う。少なくとも、正哲か正雲が三代目を襲名する事になったら、母親である英姫が亡くなっている以上、後ろ盾になるのは彼女しかいないわけです。西太后みたいなもんだw

38)高英姫実家跡(以下参考文献、鈴木琢磨著「金正日と高英姫」)現在は更地になっており大阪に住む日本人の所有。ここは遠くからこの向こうにありますよ~っ、てことなので特に説明はなかったのですが、以前にも訪れているのでサクっと説明すると、「高英姫」本名、高春幸。金正日の第4夫人です。現在話題になっている金正日の後継者争いですが、そのうちの一人「金正哲」の母である。どうやら「金正哲」が後継者になる可能性が高いと言われていますね。その高英姫はここ猪飼野の出身の帰国者です。1953年6月16日生まれ。5人兄弟の二人目。
高英姫の父親は済州島出身の一世でその名を「高太文」(高泰文とう説もある)という。日本名、高山洲弘。1920年に済州島で生まれ、13歳の時に「君が代丸」に乗り大阪へ渡った。ここであることに気付く。済州島出身で君が代丸で大阪へ渡った。はいそうです、梁石日の父で「血と骨」にも登場し、強烈なインパクトを与えた「金俊平」とダブりますよね。
高太文は当初めがね工場で働いていたが(おそらく生野区田島。田島は日本の眼鏡レンズ発祥之地である)朝鮮人への差別的待遇に嫌気が差し退職。自分の力のみで勝負できる柔道家を目指し結局、講道館六段を取得するまでになった。そして、時は流れ祖国は解放され、朝鮮戦争も休戦と時代は変わっていった、そんな日本でひとりの超ウルトラスーパーヒーローが誕生する。「力道山」である。同胞である力道山を見て高太文が何かを感じたのは想像に難くない。それに加えて柔道からプロレスに転身し、スターレスラーであった「木村政彦」もいた。高太文がプロレスラーを目指すのは自然の流れか。
そして1956年「東亜プロレスリング協会」を設立、「大同山」と名乗る。同じく設立者には「白頭山」というレスラーがいる。「大同山」に「白頭山」ってコテコテの朝鮮風やなぁ・・・ちなみに「東亜プロレスリング協会」の道場は大今里にあったらしい。
大同山は東亜プロレスリング協会設立後すぐにスポットライトがあたる舞台が訪れた。木村政彦との対戦が決まったのだ。木村政彦率いる「国際プロレス団」vs「東亜プロレスリング協会」の対抗戦が組まれ大同山は木村政彦と対戦することになったのだ。
結果は大同山の反則負けとなったのだが、その後の朝鮮総連の月刊誌「祖国」には大同山が勝っていたのだが日本反動分子の謀略によって反則負けになったと書かれている。
設立後すぐに表舞台にたった大同山であったが、奇しくもその舞台が最初で最高の舞台となってしまったようだ。力道山になれないと悟った大同山、いや高太文はその5年後1961年に高英姫を含む家族と共に北朝鮮へ渡ったのだ。その時、高英姫8歳。
この帰国は単に帰国事業で帰ったのではないと言われているらしい。高太文一家の名が帰国者リストにないのだ。ある使命をうけていたのではないかという。すでに共和国でのポジションは保証されていたんではないかということだ。そのひとつは共和国の柔道発展の為の指導者としてのポジション。これはその後、実際に結果を残している。東京オリンピックに対抗して社会主義国がジャカルタで開催した「GANEFO」で金メダル2個、銅メダル1個を獲得している。北朝鮮はソウルオリンピックの時も平壌世界青年学生祭典とかいったよくわからん大会を開いてるよね。
もうひとつの任務は「力道山の取り込み」。当時すでにスーパースターであった力道山は南北での争奪戦が繰り広げられていた。そりゃ、朝鮮人であんだけのスーパースターを自国側に取り込みたいと南北が思うのは当然。しかしいくら高太文が大同山というプロレスラーであったとしても力道山を取り込むことなど不可能である。第一にレスラーとしての「格」があまりにも違いすぎる。ちなみ力道山の北朝鮮での葬儀には高太文も参列している。もっともこの葬儀も政治的宣伝のために設定されたものに過ぎないが・・・
話を高英姫に戻すが、高太文は一応北朝鮮では特権階級の部類に入る。高英姫も幼いころから踊りのレッスンを受け平壌音楽舞踏大学を卒業し万寿台芸術団に入り、遂にはトップスターとなる。確かに若い頃の写真を見ると容姿端麗である。加えて舞踏もすばらしい才能があるとなれば金正日の目に留まらぬ訳はなく、金正日は高英姫に相当入れ込んでいたらしい。
その後万寿台芸術団の日本公演が1973年にあり主役である高英姫も来日をはたしている。このとき既に「特別な存在」であった高英姫ではあるが日本へ行くということにあたり「忠誠心」をチェックされる機会ともなったのだ。
そして遂にファーストレディーへの階段を上りはじめた高英姫。その後も極秘裏に日本へ入国している。高級品を買い漁ったり、ディズニーランドへも来たらしい。余談ですが金正日からはたまに「あゆみ」と呼ばれていたらしい「いしだあゆみ」からとったとされている。
金日成の死後、着々と地位を確実なものとした高英姫は我が息子、金正哲の世襲にむけて動き出す。金正男の追い出しにも成功し、金正日の視察にも同行をするようになり自身の神格化キャンペーンの作業にも入った。軍の内部文書には高英姫が「尊敬するオモニム」として登場するようになった。高英姫が尊敬するオモニムということは、すなわち息子金正哲が権力の世襲をするという意味である。
しかしこのキャンペーンは長くは続かなかったらしい。理由は不明である。そして報道でも度々聞いた、「高英姫死亡説」。交通事故で死んだとか、乳癌の治療でパリの病院へ入院しているとか、さらには大阪の病院へ入院しているという噂まであったらしい。もっとも大阪入院説は噂に過ぎなかったが・・・
ちなみに高英姫実家跡から北へ約150m。鶴橋1丁目にある「大師湯」という銭湯があるのだが、「大師湯に高太文はよく来ていたらしく、その裏にあった「金海道場」にも稽古によくきていた」と、参考文献鈴木琢磨著「金正日と高英姫」に書かれていたが、和田アキ子の父親が経営するこの金海道場は昭和22 年、昭和40年の時点ではまだ天王寺区にあった、という説もあり昭和36年に高太文一家は帰国しており事実かどうかは不明です。大師湯の裏の道場は現在は和田アキ子の兄の経営する道場になっている。和田アキ子は1950年生まれであるから高英姫の3歳年上になる。家も近所だし同じ在日である。いくら在日の人達がたくさんいる地域とは言え、小さい在日というくくりの中で生きている。増してや仲間意識が強かったであろう在日同士。面識があったと考えるのが普通ですよね。
Posted by Picasa

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