2009年4月15日水曜日
種痘法
種痘法100年
郵便学者・内藤陽介のブログ 内藤陽介 (ないとう・ようすけ)
1909年4月14日に「種痘法」が公布されてから、きょうでちょうど100年です。というわけで、今日はこんな切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1968年に復帰前の沖縄で発行された「仲地紀仁 牛痘種痘実施120年」の記念切手で、仲地が取り上げられています。 仲地は、1789年、泊の医学者の長男として生まれました。26才の時、中国に渡り内科、眼科を学び、帰国の時、遭難で漂着した薩摩でさらに外科を覚えて帰国。中国の漂流者の病を完治し、王府から褒章を受けています。その後、仲地は王府から派遣されて二度、宮古島での医療活動に従事したのち、泊と那覇で発生した天然痘の治療に中国で学んだ人痘治療で対応し、ふたたび、王府から褒賞を受けました。 ところで、1846年、イギリスから布教を目的にベッテルハイムが来琉。医師でもあった彼は琉球語をマスターし、那覇で西洋医学の治療を行うとともに、那覇市内の医師に西洋医学の知識を伝授しています。その際、人痘治療の実績を持つ仲地に注目したベッテルハイムは、仲地に牛痘種痘を伝授することにしました。ただし、当時の琉球では、薩摩が琉球人と西洋人との交流を禁じていたため、仲地は波之上の洞窟の中で教えを受けています。その後、仲地は苦心の末、膿疱を持つ牛を入手し1848年、牛痘種痘法を完成させました。 ちなみに、日本本土では、ロシアに拉致された中川五郎治が帰国後の1810年に牛痘を用いた種痘法を実践したほか、 1814年には安芸国の漂流民・久蔵が種痘法を覚え、牛痘を日本に持ち帰って効果を藩主に進言している例もあります。ただし、一般には、1849年に佐賀藩の医師・楢林宗健と長崎のオランダ人医師・モーニッケが種痘を実施したのが本格的な牛痘種痘のルーツとみられているようで、仲地の実績はそれに先立つものとして、琉球史において特筆大書され、切手にも取り上げられたということのようです。
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