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2008年12月21日日曜日

「なんてビューティフルな人たち」




チャールズ・マンソン初出『世紀末倶楽部』#1

1 殺人 スーザン・アトキンズは「なんてビューティフルな人たち」と思った。 1969年8月8日の夜だった。彼らはフェンスを乗り越えて侵入した。シエロ・ドライヴ一〇〇五〇番地は袋小路である。テックス・ワトソンは二二口径九連発のバントライン・スペシャルを持っていた。アトキンズ、リンダ・カサビアン、ケイティ・クレンウィンケルはそれぞれナイフで武装していた。テックスが電柱をよじ登り、ワイヤー・カッターで電話線を切断する。四人はゲート脇の斜面を上がって、フェンスを乗り越えた。そこへ白のナッシュ・アンバサダーが母屋からゲートに向かって降りてきた。テックスが飛び出して銃を向けた。「やめろ、撃たないでくれ」テックスは黙って四発を撃ちこんだ。スティーヴン・ペアレントは即死した。たまたまこの晩、友人だった管理人のコテッジを訪れたのが身の不運だった。 テックスは館のまわりをまわり、無人の部屋の網戸をナイフで切り裂いて侵入した。そこはまだ生まれていない子供、ポール・リチャード・ポランスキーの部屋になる予定の場所だった。玄関にまわると、ワトソンはドアを開けてアトキンズとクレンウィンケルを導きいれた。カサビアンは見張りのため外に立った。居間のソファには男(ヴォイテック・フライコフスキー)が寝ていた。物音を聞いて目をさましたのだろう。男は「今何時だ?」と尋ねた。答は「動くと殺すぞ」。 当然続く質問にテックスは答えた。「俺は悪魔だ。悪魔の業をしに来たのだ」 ワトソンはアトキンズに、他の部屋を見てくるよう命じた。南のメイン・ベッドルームにはコーヒー王の跡取り娘アビゲイル・フォルジャーがいた。一人でベッドに寝て、本を読んでいた。彼女は気配を感じて顔を上げ、アトキンズを見た。そして笑って手を振った。アトキンズも微笑み、手を振り返した。もう一つの寝室では妊娠中の女性と、中年の色男が話しこんでいた。二人は話に夢中で、アトキンズには気づかなかった。彼女は心の中で思った。「わお、この人たちって本当にビューティフル」
 翌朝八時半、家政婦ウィニフレッド・チャップマンがいつものようにロマン・ポランスキー家に出勤してきた。ウィニフレッドは北側の勝手口から建物に入った。キッチンの受話器を取り上げて、音がしないのに気づいた。電話が切れていることを伝えようと、正面ホールにまわる。そこには血まみれのタオル。血痕。ドアには血でPIG(ブタ)の文字。そしてポーチに死体。フライコフスキー。 彼女はUターンして丘をかけおり、警察に電話をかけた。急行した警官は警戒しながらポランスキー邸に入っていった。彼らはまず車の中でこと切れているペアレントを発見した。続いて玄関前で玄関前で死んでいたフライコフスキー。彼はポランスキーのポーランド時代からの友人であり(『タンスと二人の男』のプロデューサーの息子である)、アメリカで作家/批評家として身をたてることを考えていた。彼をアビゲイル・フォルジャーに紹介したのは作家イエルジー・コシンスキーである。 アトキンズにフライコフスキーを殺すよう命じたのはワトソンだった。二人は格闘になり、アトキンズは無我夢中でナイフをふりまわした。フライコフスキーは脚を四ヶ所、背中を二ヶ所刺された。だが、フライコフスキーはくじけなかった。圧倒され、ナイフをなくしたアトキンズはワトソンに助けを求めた。ワトソンはフライコフスキーを撃った。ワトソンは狂乱し、銃のグリップが折れるほど殴りまくった。フライコフスキーはまだ死ななかった。玄関からよろめき出て、助けを求めた。ワトソンは狂乱し、後ろから襲いかかって刺しまくった。彼は絶命した。トーマス野口の検死解剖では、全身に五一ヶ所の刺し傷が確認された。 フライコフスキーの恋人だったフォルジャーもすぐ隣でこと切れていた。フォルジャー・コーヒーの跡取り娘だった彼女は億万長者であり、熱心な社会改革家でもあった。ソーシャル・ワーカーとして、サウス・セントラルの貧民街で支援活動をしていたこともある。フォルジャーの死体には二一ヶ所の刺し傷があった。死因は出血多量。 居間にはもうふたつ、死体が転がっていた。ヘア・スタイリストのジェイ・セブリングは三五歳のプレイボーイで、シャロン・テートの元恋人でもあった。セブリングはワトソンに飛びかかり、二発の銃弾を受けた。致命傷ではなかったが、その後ワトソンにめった刺しにされて死んだ。 そしてシャロン・テートがいた。妊娠八ヶ月のシャロンは、三人の友人が惨殺されるのを見せられながらも、無慈悲な殺人鬼たちに必死で懇願した。「お願いだから助けて。あたしは赤ちゃんを生みたいの」アトキンズは、おそらくは自分を鼓舞するために、冷酷に言い返した。「動くな! 黙ってろ、お前の言う事なんか聞きたくない」アトキンズは言う、「シャロン・テートはマネキン人形みたいだとしか思えなかった……ロボットみたいだった--ベラベラベラベラ……お願い助けて、お願い助けて。聞いててうんざりしたから、刺したんだ。そして刺したら、彼女は倒れて、また刺して……何度も何度も……」最初に刺した瞬間、ナイフがシャロン・テートの肉体に沈みこんでいくとき、とてつもないエクスタシーを感じた、とアトキンズは語った。とどめに、三人が彼女を滅多刺しにした。シャロンは全身に一六個の刺し傷をつけられていた。扉の文字は彼女の血で書かれたものだった。 シャロンが飼っていた黒猫が、流れ出す血の臭いを嗅いでいた。
 2 マンソン 一九六七年三月二一日、チャールズ・マンソンはターミナル・アイランド刑務所を出所した。年は三二歳半。一二歳ではじめて少年院に送られてからは、塀の中で過ごした時間の方が外にいたときよりも長かった。マンソンは父の顔を知らない。娼婦だった母親は子供などほったらかしだった。マンソンは叔父や祖父母の家を転々としながら育った。教育の仕上げをしてくれたのは刑務所である。 窃盗、売春斡旋、小切手詐欺といった罪状を見ていくだけで、それまでのマンソンの人となりをうかがい知ることはできよう。マンソンはケチな犯罪者だった。人を騙すことに罪悪感などなく、むしろそれが当然だとさえ思っていたふしがある。ここは弱肉強食の社会である。カモになる間抜けの方が悪いのだ。“父無し子”としていじめられ、一人で戦わなければならなかった少年時代、そして力だけが正義だった刑務所内での生活が、そういう考え方を叩きこんだのだろう。マンソンはすっかり監獄に適応していた。釈放の日が近づくと、もう少し中に居られないものかと看守に頼んでさえいる。彼はこの安定した世界から出たくなかったのだ。ちなみにこの前後にマー・バーカー・ギャングの一員だった有名な銀行強盗アルヴィン・カルピスと親しくなり、ギターの引き方を教わった。「マンソンは辛抱強く、熱心な生徒だった」そうだ。マンソンは歌手として身をたてることを夢見るようになる。 釈放されたマンソンは刑務所内で親しくしていた元囚人を頼ってサンフランシスコに向かった。時あたかも満開に花咲こうとしていたサマー・オヴ・ラヴ。ヘイト=アシュベリーには人があふれ、車は通行止めになるほどだった。女っ気なしの生活を七年も続けたあとで、いきなり若者文化の大革命のただ中に放りこまれたのだ。チャーリー32歳デビュー。 マンソンを批判する人は、多くが彼を似非ヒッピーだと指摘する。つまり、マンソンは、ヒッピーの理想を疑いを知らぬ若者たちを引っかけるための餌に利用しただけだというのだ。友愛の理想で〈ファミリー〉を作り上げておいて、自分の邪悪な殺人願望のためにそれをねじ曲げていったのだ、と。だが、そうした考えは明らかに誤りである。マンソンは語っている。「俺は、ちょうどそのとき自分のいる場所を住居とする何千人もの人間の一人になったのだ……街角で歌うだけで、一日食うのに十分なくらいの稼ぎがあったが、俺はそのためにギターを弾いたり歌ったりしたわけじゃない。音楽をとおして人びとと心が通い合い、友だちができ、認めてもらえるからだ。歌っているときは、過去は何の関わりもなく、先のこともいっさい考えず、ただ「いま」があるばかり」(『悪魔の告白』) この実感には真実味があるし、後に〈ファミリー〉に向かって説教する内容とも呼応している。マンソンは自由の味をかみしめ、おずおずと経験を深めていった。LSDを味わい、グレートフル・デッドを聴き、フリー・セックスを楽しんだ。あっという間に立派なフラワー・チャイルド(と言うにはいささかとうが立っていたが)に成長する。UCB構内で司書をしていたメアリー・ブランナーという娘と出会うのもすぐだった。マンソンは彼女の家に転がりこむ。メアリーは最初の〈ファミリー〉のメンバーになった。
3 〈ファミリー〉〈ファミリー〉のメンバーにはあまり美人はいない。むしろ、目だたないタイプの女の子が多かった(美人に見える格好はしていなかったことを割り引かなければならないだろうが)。 スーザン・アトキンズの場合はこうだった。 アトキンズは14歳で母親をなくし、16歳のときに家出した。19歳のときには執行猶予つきでストリップ・クラブで踊る日々だった。ある日、ヘイトのたまり場にギターを持った男がやってきた。女の子がまわりに群がる。彼の歌声は天使のようだった。アトキンズは彼の気を引こうとして、ギターを貸してくれと頼んだ。実際のところ、弾き方など知らなかったのだが。ところが男は「本当に弾きたいと思うなら、弾けるとも」と言って、ギターを渡した。まるで心を読んだかのように。 アトキンズはその場にひれふし、男の足にくちづけした。彼女は帰依したのだ。そして数日後、二人は初めて愛を交わした。アトキンズは服を脱ぎ、鏡の前に立つよう命じられた。彼女がためらうと、マンソンは言った。「さあ、よく見るんだ。お前にはどこもおかしなところはない。お前は完璧だ。昔からずっと完璧だった。体を見るがいい。お前は完璧な体で生まれ、赤ん坊のときから今この瞬間までお前に起こったすべてのことは完璧なかたちで起こったのだ。お前はなんの間違いも犯さなかった。たったひとつの間違いは、お前が間違いをしたと思ったことだ。それは間違いではない……」 マンソンはとりたてて特別のことをやったわけではない。誰しも持っているコンプレックスを解きほぐし、「そのままでいいんだ」と言ってやっただけである。これが時代も場所も越えて有効な手であることは、たとえば少女漫画の「そのままのきみが好きだよ」を見ればあきらかだろう。コンプレックスに凝り固まった相手、自分に自信がもてないでいた娘ほど、この呪文はよく効く。アトキンズは〈ファミリー〉に加わり、“サディ・メエ・グラッツ(セクシー・サディ)”という名前をもらった。 マンソンの基本的な説教は単純なものだった。「自分自身にたち戻れ、自分を愛せ、ただし我欲は捨てろ。物質的なものにまどわされるな。快く感じられるもの、自分を満足させてくれるもので、悪いものは一つもない。いまを生きろ。昨日は忘れ、明日のことはあまり思いわずらうな。愛はみんなもの、分かち合うべきものだ」 マンソンはファーザー・コンプレックスを利用した。LSDを服用して交わりながら、よく、自分を父親だと思い、父親とセックスしているところだと想像しろと命じるのだ。そして「世間が罪だと言ったことは、こんなに素晴らしいだろう?」と問いかけるのだ。マンソンは次々に固定概念をほどいていく。罪もない、恥もない、責められることも、すがりつく過去もない。「個人」などというのはまやかしだ。 なるほどドラッグに酔い、エクスタシーに達する瞬間には、「個人」などなくなってしまうだろう。お前はわたしだ。 こうしてマンソンは信奉者を集めていった。以下何人か主要メンバーを挙げておく。 リネット(スクゥィーキー)・フロムはメアリーの次の〈ファミリー〉メンバーであり、エクスタシーの悲鳴がキイキイ声だからとこのあだ名をもらった。 ルース・アン・ムアハウスは14歳で〈ファミリー〉に加わった。父親の牧師ディーンは、未成年者にLSDを与えたため逮捕されている。 サンドラ・グッドは、アトキンズがマンソンと出会うことになったアパートの家主である。彼女は今なおもっとも頑固なマンソン信者の一人だ。 テックス・ワトソンは高校時代ハードル走のテキサス記録を保持していたほどのスポーツマンだった。〈ファミリー〉にいるあいだに、彼のIQは30も低下したと言われる。 ボビー・ボーソレイユ。彼については少し詳しく書かねばなるまい。 サンタ・バーバラ出身の美青年ボビーはLAのアンダーグラウンド・フィルムメイカー、ケネス・アンガーのお気に入りだった。ハリウッド暗黒史の語り部であるアンガーがこの説話に巻き込まれることになるのは必然だったと言えよう。今世紀最大の魔術師アレイスター・クロウリーに私淑するアンガーは、自らの映画でも悪魔崇拝をあからさまにしていた。アンガーは自らの最高傑作となる『ルシファー・ライジング』製作準備中にボーソレイユと出会った。アンガーは一目見た瞬間、叫んだ。「きみが悪魔[ルシファー]だ!」ボーソレイユはルシファー役を得た。もちろん、ボーソレイユにしても、悪魔の化身を演じるに嫌はない。 音楽の演奏まで担当したボーソレイユだが、やがてアンガーと衝突、たもとをわかつ。アンガーのホモセクシャル的愛情がうっとうしくなったためでもある。ボーソレイユは数名の女性“信者”を引き連れてLA近辺に住み着いた。このころ『ラムロッダー』なるポルノ西部劇にも出演している。やがて女性信者の仲介でマンソンと出会い、ファミリーに合流する。“チャーリーズ・エンジェル”の一人、レスリー・ヴァン・ホートンも、元々はボーソレイユの信者である。女性たちの〈ファミリー〉への移行は速やかに行われたようだ。ボーソレイユは「しぶしぶ」である。しかし、一度加わってしまえば、彼もチャーリーの意志にはかなわなかった。
4 無限の魂 拡大してゆく〈ファミリー〉によって、マンソンは何を得たのだろう? マンソンはしょっちゅう“無限の魂”について説教した。われわれはみな不可分のひとつ、巨大な魂の一部である。神も悪魔もその一部に過ぎない。もちろん〈ファミリー〉のメンバーも、チャーリーその人も。したがってきみはわたしであり、チャーリーは神であり、〈ファミリー〉の意志はひとつである。すべてはただひとつの“無限の魂”の中にある。〈ファミリー〉たちはこの言葉を信じた。彼らは解放され(自分自身にたち戻り)、チャーリーの奴隷となって彼の命じるがままに動いたのである。なぜそうなってしまったのか? マンソンは全員にエゴを捨てるよう説いた。全員がエゴを捨てた。そうすれば〈ファミリー〉は全員の集合無意識によって動き始めただろう(そんなことが可能ならだが)。だが、実際には一人だけエゴを捨てていない人間がいた。もちろんマンソン本人である。マンソン一人が、〈ファミリー〉の中で意志を持っていた。だからマンソンの意志は〈ファミリー〉の意志であった。マンソンの自我は〈ファミリー〉のサイズにまで拡大したのである。 実際には、これはそう珍しいことではない。あらゆるカルト(制度化されていない宗教)において起こっていることだ。教祖は自分の自我を信者の上に広げ、権力欲を満足させる。信者は自我を教祖に預け、偉大なる教祖と同一化して満足する。決して一方的な関係ではない。信者の側も自ら進んで自我を放棄しているのである。「洗脳」ではない。本気で嫌がっている者をコントロールすることなどできないのだ。実際、マンソンから何度もアプローチされながら「詐欺師っぽい」と感じたために〈ファミリー〉入りしなかった者は多い。自我を確立したい人と同じくらい、捨てたがる人もいる。実際のところ、自我を捨ててしまえば楽なのだ。ものを考えるのは、結構辛いものなのである。〈ファミリー〉のマンソン化はすっかり完成しており、彼は命令する必要すらなかった。ほんのわずかほのめかすだけで、みなが彼の意を汲んで動いたのである。「食べ物が要るな」と言えば、少女たちはスーパーのゴミ箱を漁った。「〈ファミリー〉には金がない」と言えば誰かが盗みに入った。「あの男は死なねばならぬ」と言えば…… だがそれはまだ先の話だった。その前に、マンソンは歌手デビューにトライする。ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンの知己を得たのである。
5 ハリウッド〈ファミリー〉はサンセット・ブルヴァードにあるデニス・ウィルソンの邸宅に住みついた。元祖サーフィン・ミュージックのビーチ・ボーイズは当時米国でもっとも人気のあったバンドのひとつだった。数百万枚のレコード・セールスをあげ、何枚ものゴールド・ディスクを獲得していたバンドのリーダー、ウィルソンはサマー・オヴ・ラヴに完全にチューン・インしていた。LSDをバリバリむさぼり、フリー・セックスをエンジョイし、稼いだ大金をみなに分け与えたのだ。マンソンが飛びつかない訳がない。 ウィルソンはマンソンの才能を認め、レコード・プロデューサーのテリー・メルチャーに紹介した。これは後に重要な意味を持ってくる。〈ファミリー〉はメルチャーの家にも何度か出かけた。メルチャーはビヴァリー・ヒルズの丘の上、シエロ・ドライヴ一〇〇五〇番地に住んでいたのだ。 マンソンはLAヒップ人脈のちょう児となり、多くの有名人と出会った。安楽な暮らしを捨てたくはないが、火遊びは好きな“先端人種”たちにとって、本物のヒッピー歌手はなかなかに魅力的な存在だったのだ。68年の夏、マンソンはブライアン・ウィルソン(デニスの実兄)の自宅にあったスタジオで〈ファミリー〉のアルバムを録音した。さらにデニスはマンソンの曲を取り上げ、シングルのB面に採用した。突破口は間近に迫っているように思えた。 だが、その日は来なかった。ヘロイン中毒のデニス・ウィルソンは家を売ってビーチに引っ越した。〈ファミリー〉は家から追い出され、メルチャーはレコード契約を結べなかった。マンソンはLAの北、シミ丘陵に近いスパーン農場に拠点を移した。
 マンソンを生みだした時代風潮は、もちろん、彼一人の上に流れていたわけではない。ハリウッド・コミュニティにおいても同様だった。ポランスキーもまた時代の子供だった。 ポーランド人映画監督ロマン・ポランスキーは1967年、アイラ・レヴィンのベストセラー小説『ローズマリーの赤ちゃん』映画化のために米国に招かれた。ポーランド国立映画大学で映画製作を学んだポランスキーは、62年の『水の中のナイフ』でヴェネツィア映画祭の批評家賞を得て名をあげた。この成功で英国に招かれ、血まみれ映画二本、『反撥』と『袋小路』を作る。『反撥』ではカトリーヌ・ドヌーヴが性的妄想に悩まされる娘を演じた。続く『ポランスキーの吸血鬼』で、主演女優シャロン・テートとはじめて出会う。『ローズマリーの赤ちゃん』は悪魔主義者たちにとらわれ、悪魔の赤ん坊を妊娠する若妻の話である。ポランスキーは悪魔主義者の親玉役に、〈悪魔の教会〉の創設者アントン・ラヴェイを起用した。映画に迫真性を出すためでもあり、またそうした悪ふざけが好きだったせいでもある。ケネス・アンガーは〈悪魔の教会〉成立以前のラヴェイの弟子だった。ラヴェイは積極的に弟子を増やそうと、観光化した“魔術ショー”を催していた。サンフランシスコのノース・ビーチにあるジジズ・ナイトクラブでは、定期的に“魔女のサバト”ショーが行われていた。邪気たっぷりのポランスキーはきっと取材に出かけたはずだ。そのショーで踊っていた黒髪のストリッパーには目をつけなかったろうか。名前をスーザン・アトキンズという。アトキンズは〈悪魔の教会〉メンバーでもあった。 68年1月20日、ポランスキーとテートは結婚した。69年の2月にはシエロ・ドライヴの家に引っ越す。悪魔の祝福を受けた甲斐あって『ローズマリーの赤ちゃん』のプレミアは大成功をおさめる。ポランスキーは一躍時の人になった。そしてヨーロッパから来たヒップな映画監督は、花咲くLAのアンダーグラウンド・シーンに浸りきって当然だと考えられた。ポランスキーは進んでその役割を引き受けた。彼は夜な夜なサンセット・ストリップのストリップ小屋に入りびたり、LSDやマリファナをたしなんだ。シャロン・テートと自分の主演で、プライベートなポルノ・フィルムも作っていた(他の者が登場するフィルムもあった、と噂されている)。同じくヒップなハリウッド仲間を集めては、怪しいパーティを開くのも珍しいことではなかった。メンバーには、『異端の鳥』を書いた作家イエルジー・コシンスキー、俳優ポール・ニューマン、『マイラ』でハリウッドから追放される映画監督マイケル・サーン、ママス&パパスのジョン・フィリップス(デニス・ウィルソン邸でマンソンと遭遇している)、それにヘアデザイナーのジェイ・セブリング(『シャンプー』でウォーレン・ビーティが演じたプレイボーイのヘア・デザイナーは彼がモデルである)、ヴォイテック・フライコフスキーといったメンバーだった。 ヒップなハリウッド人種にとっては、ドラッグもフリー・セックスも悪魔主義も新しい遊び道具に過ぎなかった。それがどれほど危険な火遊びかはまったく考えず、ひたすらゲームを遊んでいた。だが、その裏で彼らのネガ、彼らがたわむれに取り上げては放り出した者たちの復讐が一歩一歩近づいていたのだ。後で書くが、〈ファミリー〉がシエロ・ドライヴ一〇〇五〇番地を訪れたのはまったくの偶然である。だがそれでも、これはやはり必然だったという気がしてならない。マンソンの肥大した自我は、自分にいちばん近い犠牲者を求めていたのではないか。いや、思いあがったポランスキーが、マンソンのような男を呼び寄せるのは時間の問題だったのだ。
6 ヘルター・スケルター 69年4月、レコード・デビューの夢は破れ、〈ファミリー〉はスパーン農場へと移住した。マンソンは底無し穴について話すようになった。やがてその穴からは飛蝗が現れて、人間のすべての営みを食いつくすのだという。マンソンは愛と合一について語るよりも、炎と浄化のことを話したがるようになった。〈ファミリー〉はおおっぴらに殺人の話をするようになった。 マンソンが〈ファミリー〉に向かってしかけた“無限の魂”、これはあからさまにペテンである。そんなものは権力欲を満足させるための道具でしかない。はたしてマンソンはそのことに気づいていたのだろうか? たぶん、心のどこかでは気づいていたのだろう。だが、ある時点でマンソン本人も自分のついた嘘を信じこんでしまった。それからは破綻に向かう一本道が待っているだけである。その“時点”とはいったいいつだったのか? これはこの事件すべての中で、もっとも興味深い点である。たぶん最後のとどめが、このレコード・デビューに失敗した時だったのではないか。 マンソンは本当の意味で努力をしようとはしなかった(ただ御託を述べていれば、レコード契約が降ってくると思っていた)から、どんな過程をたどったとしても、いずれはこういう結果が待っていただろう。マンソンは挫折感を抱いてスパーン農場にやってきた。だが、不満をぶちまける相手はいなかった。誰に何を言っても、自分がこれまでやってきた説教が帰って来るだけだったろう。腹を立ててはだめよ、チャーリー。奴らのシステムなんか関係ない。過去はもうない、大事なのは今だけ。 いつまでも残飯を漁り、泥棒を繰り返して生きていくことはできない。そんなことをしていたら、いつかは破綻がやってくる。マンソンはそのことをわかっていただろう。だが〈ファミリー〉には、他にそれがわかる者はいない。「過去も未来もない。大事なのは今だけ」なのだから。 このとき、マンソンは未来を考えることをやめた。現実を見るのもやめ、頭の中の空想だけを相手にするようになった。だが、挫折感だけはどうしようもない。挫折感は欲求不満となり、敵意となって表出する。「ヘルター・スケルター」がやってきた。“ヘルター・スケルター”とは来るべき人類最終戦争のことである。マンソンはビートルズの『ホワイト・アルバム』に収録された同名曲からインスピレーションを得た。やがて虐げられた黒人たち、ブラック・パンサーたちがほうきし、何百万人もの白人を殺すだろう。黒人と白人は血みどろの戦いを繰り広げ、ついに黒人が覇権を握る。だが黒人たちには世界を統治する能力がない。やがて黒人たちもそのことを悟り、デス・ヴァレーの洞窟の中で“ヘルター・スケルター”を生き延びた〈ファミリー〉に世界の覇権を譲るのだ。 とてもでないが、素面で信じられる話ではない。だが、人は信じたいことを信じるものだし、チャーリーには信じさせる力があった。どの道、これまでだって全部信じてきたのだ。〈ファミリー〉は砂漠で戦闘訓練をはじめた。全員がナイフ投げを練習し、人の喉をかき切ったり、頭蓋骨を煮沸して肉をこそげ落とす訓練もした。武器を集めはじめ、砂漠を走れるデューンバギーを手にいれた。マンソンはジャッカルやガラガラヘビを崇拝することを教えた。“ヘルター・スケルター”を生き延びるために。 人を殺すことも正当化された。すでに盗みは正しいこととされていた。万物は万人のものだから、人のものを奪うのも当然だ。殺人もまた“無限の魂”によって正当化される。きみもわたしも、すべての人は“無限の魂”の一部に過ぎない。ならば殺人など小さなことだ。自分の一部をほんの少し殺すだけのこと。
 破局は近づいていた。1969年7月25日、ボビー・ボーソレイユ、スーザン・アトキンズ、メアリー・ブランナーが音楽教師ゲイリー・ヒンマンの元を訪れた。ヒンマンはドラッグ密売人として〈ファミリー〉とは浅からぬ仲だった。ヒンマンは2万ドルの遺産を家に隠しているという噂だった。3人はヒンマンに〈ファミリー〉に加わり、2万ドルをサバイバル資金として差し出すよう求めたのだ。押し問答は2時間も続いたが、答は変わらなかった。ノーだ。日蓮正宗の信徒だったヒンマンは、よくわからないカルトに加わって、マンソンを神とあがめる気など毛頭なかった。苛立ったボーソレイユは銃を抜きだした。乱闘になり、銃が暴発し、ヒンマンは頭を数回殴られた。 ヒンマンは縛られ、なおも金を出せと脅されつづけた。連絡を受けてマンソンもやってきた。彼は肌身離さぬ“魔法の剣”で切りつけ、ヒンマンの耳をそいだ。マンソンはヒンマンを監禁し、財産を奪う計画だった。だがその翌日のどこか、錯乱したボーソレイユがナイフで切りつけて、ヒンマンは死亡した。〈ファミリー〉はついに一線を越えたのだ。 彼らは現場を偽装し、黒人過激派の仕業に見せかけようと考えた。そうすれば人種間の対立が激しくなり、“ヘルター・スケルター”の訪れも近づくだろう。ヒンマンの血を使って、壁に「政治的なブタ」の字を書いた。ブラック・パンサーの仕業だと示すために、下手クソな猫の手の絵も描いた。
7 神話 以下の話は簡潔に記す。 8月4日、ヒンマンの車を運転していてボーソレイユが逮捕された。 8月8日、マンソンの命を受け、〈ファミリー〉のメンバーがポランスキー邸を襲った。マンソンはメルチャーが引っ越した後でこの家を訪れ、「クズのような扱い」を受けたことに恨みを抱いていた。“ヘルター・スケルター”だ。もはやこの時点では、自分たちが世の終わりをもたらす悪魔なのか、救うために降臨する救世主なのか、わからなくなっていたのだろう。 8月9日の深夜、ロス・フェリス地区に住むレノ・ラビアンカ邸をマンソンを初めとする7人が襲った。マンソンは隣家に行ったことがあり、あたりをよく知っていた。ラビアンカ夫妻はめった刺しにされて死亡した。壁には「ブタどもに死を」「ヘルター・スケルター」の血文字が踊っていた。 8月16日、スパーン農場に手入れがおこなわれ、自動車窃盗の容疑で25人が逮捕された。だが、警察はテート=ラビアンカ殺人と〈ファミリー〉との関係に気づいておらず、全員を釈放した。 9月、〈ファミリー〉はデス・ヴァレーのバーカー農場に移動を開始した。ここを根拠地にし、デューン・バギーを駆って町を襲う略奪軍団を編成するつもりだった。 10月12日、銃器不法所持などの容疑でマンソンは逮捕された。警官が踏み込んだとき、マンソンは洗面台の下の小さなキャビネットに体を押しこんで隠れていたという。 11月6日、アトキンズは同房の女囚に「テート事件の真犯人は自分だ」と吹聴した。 1971年3月29日、マンソン、アトキンズ、ワトソン、クレンウィンケル、ヴァン・ホーテンに死刑が言い渡された(リンダ・カサビアンは検察側証人となって罪を免れた)。ただし、刑はただちに終身刑に減刑された。 以来マンソンはカリフォルニアの州刑務所にいる。だが、彼の影響力はこれまで以上に強まっている。マンソンの曲をカバーするアーティストは数多い。ガンズ&ローゼズの『スパゲティ・インシデント?』は百万枚売れた。レッド・クロス、サイキックTV、ソニック・ユース、レモンヘッズ。ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーはシエロ・ドライヴの家を借りてアルバムをレコーディングした。ところでこれだけのミュージシャンだが、誰一人としてマンソンを歌手として評価しているわけではない。すべて、マンソン神話に自分なりの貢献をするためだ。マンソンは60年代のもっとも重要な文化的アイコンのひとつになった。 67年に刑務所を出てから、マンソンは一人一人信奉者を増やしてきた。言い替えれば〈ファミリー〉を作ることで、マンソンはエゴを飛躍的に拡大した。抱えられるだけの〈ファミリー〉を抱えてしまっても、エゴの拡大はやまなかった。マンソンは途方もなく血なまぐさい殺人によって、麗しのシャロン・テートをも自分をめぐる星座の中に加えたのである。 シャロン・テート事件はハリウッド裏面史に欠かせぬ一頁である。ヒッピーの一団に血まつりにあげられる映画女優、それはひとつの原型にまでなった。実在の殺人映画か、と騒がれた『スナッフ』はマンソン・ファミリーのようなカルト集団が撮影のために南米にやってきた女優を襲う話である(〈ファミリー〉にもスナッフ・フィルム製作の噂があった)。テートは68年、ジャクリーヌ・スーザンのベストセラー小説『哀愁の花びら[ヴァレー・オヴ・ザ・ドールズ]』映画化で初のメジャー映画の役を得た。その続編『ワイルド・パーティ』が70年に作られることになったとき、監督ラス・メイヤーは、ヒッピーのギャング集団が新人女優たちの乱交パーティを襲うという設定にしたのだ。その皮肉にもう誰も気づかないほど、マンソン神話は確固たるものになっていた。 今振り返ると、シャロン・テートはまさしく誂えられた犠牲者のように見える。マンソンはテートやポランスキーをも呑みつくし、さらに大きくなっていった。マンソンは古代の神のような、神話的存在になったのである。神話に火をくべる者がいる以上、マンソンは死ぬことはない。マンソンはついに“無限の魂” を手にいれたのだ。「わたしはおまえたちを楽園に連れてきた。もう始まりもなく、終わりもなくなった。もう過去は存在しない。ただこの無限の時があるだけだ……みんながひとつ--ひとつの力」 その名前をマンソンと言う。
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