2009年1月7日水曜日
きわめて大量のデータがあれば、理論の部分は省略して、いきなり観察結果を予想できるかもしれない。グーグルは早くからそのことに気づいていた。
グーグルの研究所長ピーター・ノーヴィグは以前、私に自慢したことがある。「あの中国語翻訳プログラムを作っている連中は、誰も中国語ができないんだ。」中国語の理論も理解もない。あるのはただデータだけだ。(サールの「中国語の部屋」という問題に対する反証が欲しければ、ここにそれがある。)つづりの法則について何も知らずに、正しい書き方を覚えることができるならば、また、翻訳しようとする言語の文法についての理論や概念を知らずに、翻訳ができるようになるとすれば、そのほかに理論を知らなくてもできることとしては何があるだろう?今月の「ワイアード」の巻頭記事でクリス・アンダーソンは、もしかしたら理論を使わずに科学ができるのではないかという発想について論じている。 それは大量のデータと応用数学が他のあらゆる道具に取って代わる世界である。言語学から社会学に至るまで、すべての人間行動の理論は不要になる。生物分類学、存在論、心理学などは忘れよう。人間がある行動をする理由など誰にもわからない。問題はその行動であって、私たちはそれを今までにない忠実さで追跡し測定することができる。十分なデータがあれば、数が物を言う。
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