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2009年1月18日日曜日

「リビング・エビデンス」




ポスト・コロニアルとしての「在日」/姜尚中

ポスト・コロニアルとして在日を捉えていく場合、これが日本人にとって何を意味するのか。在日を日本というナショナルな空間のいわば痛ましい弱者として見て、彼らをいかに、日本国民が享受している従前の権利義務の主体にまで引き上げるのか、ある種の差別撤廃運動的な見方だけでは全く見えてこない問題がある。そうではなくポスト・コロニアルとして在日を捉えていくことで、日本の、とりわけ戦後日本のあり方それ自体を根源的に問い直すほどの、大きな問題が見えてくる。 ポスト・コロニアルではなく、ポスト・ウォーということで、自らをつくりあげた戦後日本は、一体何を消そうとしたのか。あるいは遠近法的にいえば、何を遠景化しようとしたのか。それがアジアであったわけです。これはかっこつきの「アジア」、具体的には朝鮮半島をまず指していると考えるべきだと思います。 考えてみますと、先ほど杉原さんが帝国的な広がりということをいわれましたが、日本はやはり帝国へと向かうことによって、既に国民国家を超えていたわけです。国民国家を超えるという形で、植民地や満州に近代日本国家の理想、あるいは日本のエッセンスを移植しようとした。とすれば、本来、これほど自らのアイデンティティに関わる重大な問題はなかったはずで、それがなぜ敗戦と占領支配、そしてその後の一国単位的な戦後復興の中でほとんど忘却されていったのか。そのあまりにも大きな転換が、なぜ起きたのか。そしてその転換こそが、実は戦後という歴史の刻み方をつくりだしたのではないか。それはいわば帝国としての日本が、単一民族的な戦後の、かっこつきですけれども「平和国家」に、いわば収れんしていくことと同時にその裏側で起きたことでした。 そういうような戦後日本の単一民族化された空間の中で、在日は旧宗主国・日本の中に残された、いわば「リビング・エビデンス」というか「消失されたものの生き証人」だった。何が消失されたかということを、絶えず生きた証人として日本の中に突きつける存在だった。
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