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2009年2月7日土曜日

「リベラル・リバタリアン」つうか「アナーキー・ファシスト」





きみはアナーキストか、それともリバタリアンか?
ジャン=ピエール・ガルニエ(Jean-Pierre Garnier)
社会学者
訳:にむら じゅんこ
« 原文 »
 「アナーキスト(無政府主義者)」と「リバタリアン(自由至上主義者)」という2つの言葉は、政治の場において、こうした立場を宣言する活動家たちによって、長いこと不可分のものと考えられていた。より厳密には、政治の場の外で、政治の場と切り離されたところで、と言うべきだろう。政治の場とは政界のことだと見なされていたからだ。2つの言葉を不可分と考えていたのは、活動家たちを批判・抑圧する側でも同様だった。ブルジョワ秩序の公式の番人のほか、左右両派のその他の党員政治家や、諸派のジャーナリストたち、そしてこうした人々によって型にはめられた「世論」もまた、アナーキストとリバタリアンを同じものだとみなしていた。
 今日の活動家にとっても、2つの言葉の結びつきは、少しもその妥当性を失っていない。ただし彼らは、繰り返し主張してきたように、この2つが同義語ではなく、次のような微妙な違いがあることを重視する。アナーキズムのダイナミズムと地平は、労働者が集団として、自分たちを虐げ搾取する権力から自立解放を遂げることにある。ここには各個人が、彼らを疎外してきた機構制度や社会規範、信念などから自己を解き放つ側面もある。リバタリアン的な側面である。とはいえ、このように2つの概念の微妙な区別を行うことは、両者が言葉として、また政治的にも、補完関係にあることを強く浮かび上がらせる。フランスのアナーキスト連盟の週刊紙が、今日でも『リバタリアン的な世界(ル・モンド・リベルテール)』というタイトルを維持しているゆえんである。
 国家の存在こそ、それが保障するという自由への最大の侵害だと見なす少数の人々を別とすれば、アナーキスト=リバタリアンという連結は、近年は自明ではないようだ。それどころか、アナーキストやリバタリアンについて一般的に書かれたり言われたりしている文章によれば、両者の取り合わせはミスマッチらしい。職業政治家や、お雇い知識人、あるいは営利ベースの新聞雑誌では、アナーキストとリバリタリアンを二項対立とみなすのが一般的だ。アナーキズムのほうは、「テロとの戦い」のスローガンのもとに、イスラム教条主義ともども、今はなき共産主義(というより、そう見られていた体制)に替わる悪役となりつつある。逆に、「リバタリアン」という形容詞のほうは、文化的、メディア的に得点の高いラベルとして通用するようになった。あらゆる分野のエセ反逆者たちが、既成秩序に加担するだけの本性を塗り隠し、上っ面だけの反主流を気取るために使っている(1)
 一方は悪役に仕立て上げ、他方は毒を抜いてしまう。この二重の過程はそれほど新しいものではない。20世紀の初めも、アナーキズムはテロリズムとたやすく同一視されていた。アナーキズムの名目のもとで、ロシアやフランスなどで実行された「行為によるプロパガンダ」が、派手な殺人テロを引き起こしていたからだ。より一般的に言えば、以後アナーキズムは長い間、それを生み出した労働運動のなかにおいてさえ、虚無的な社会混乱を連想させるものとなる。そうした連想は、社会のなかで生きるという本来の考え方、地理学者のエリゼ・ルクリュが一言で「権力なき秩序」と言い表した考え方(2)からは、遠くかけ離れてしまっていた。
 ところがその一方で、アナーキズムという言葉は、ほどなく社交界の批評家たちによって、また違った変質を被ることになる。全く逆の方向で、つまり「ブルジョワ的な美のコード体系を転覆させる」と息巻くアーティストや作家への誉め言葉として用いられたのだ。例えばダダや「シュールレアリズム革命」の中心的なアーティストたちから、「右翼アナーキスト」を自称した戦後の反動的な小説家や随筆家、そしてヌーヴェル・ヴァーグの「騒々しい」監督たちまでが、この誉め言葉を頂戴した。その後にこちらの流れを引き継いだ形容詞が「リバタリアン」で、とりわけ歌手(ジョルジュ・ブラッサンス、ジャック・イジュラン、ルノーなど)やネオ推理小説家(ジャン=パトリック・マンシェット、フレデリック・ファジャルディ、ジャン=ベルナール・プイなど)に対して用いられた。「リバタリアン」という呼称は、時代遅れの社会変革論のひとつにすぎないと片づけられたアナーキズム(3)から切り離されて、社会風紀や思考の解放という経済自由化と折り合いのいい現象に相伴うようになった。そして、形容矛盾でしかない「リベラル・リバタリアン」という突然変異的な表現さえ生み出した。
1968年後のフランス左翼
 この「リベラル・リバタリアン」という言葉は、広告で言うコンセプトの座に上りつめる前に、フランス共産党員のある社会学者によって、まず非難の言葉として用いられた。非難の対象は、社会厚生(ソシアル)の面では抑圧的、社会関係(ソシエタル)の面では寛容的という特徴をもつ「たらしこみ資本主義」の成立である(この「ソシエタル」という新語は、やがてイデオロギー性を帯びるようになる)。また、革命の成果を主観性の革命に還元してしまった五月革命のリーダーたちの右傾化である(4)。彼らの筆頭が、ダニエル・コーン=ベンディットにほかならない。彼は「リベラル・リバタリアン」の烙印をすすんで引き受け、これを「エコと福祉の改良主義」のいかしたロゴマークに変質させた。そして、そのおかげで政治・メディア界エリート層の内部で、異色のプロ議員として、フルタイムで格好つけてまわる地位を手に入れた。
 彼は仲間にも恵まれる。1968年の「階級戦争」のもうひとりの生き残りであるセルジュ・ジュリが、1981年5月にリベラシオン紙の紙面を一新した際も、リベラル・リバタリアンの看板を掲げたからだ。ジュリ社長によれば、「きっぱりとモダン」にリニューアルした同紙は、2つの遺産を念頭においた路線を行くものだった。ひとつは、啓蒙の世紀の哲学者たちの「リベラル」であり、もうひとつは、五月革命の反権威主義的な学生たちの「リバタリアン」である。知的熱狂に満ちた2つの時代の間には、暗い空白が広がっている。オーウェルの『1984年』に出てくる「メモリー・ホール」を思わせるブラックホールに見えなくもない。150年にわたる中間期に起こっていたのは、労働運動の高揚であり、その発展を後押しした思想と理想の高揚だった。言い換えれば、左翼政権が市場や企業、利潤の復権に向けて発進した1981年5月には、反資本主義はもはや季節はずれとみなされていたのだ。
 ようやく社会党のなかで主流派となった「左翼第二世代」は、リベラル・リバタリアンの旗を我先にと高く掲げた。1980年代、ローラン・ファビウスの一派とミシェル・ロカールの一派は、対立をはらみつつも「春巻き(ルロー・ド・プランタン)」という名の団体に結集して、社会党の重たい過去を一掃し、経済の「近代化」を実施するために一丸となった。経済の近代化は「緊縮」政策を伴うが、そのかわり「創造的で革新的な生活様式のリバタリアン的な興隆」をもたらしてくれる、なぜならライフスタイルもまた「過去の古臭さと重苦しさから解き放たれる」からだ、という筋書きである。
 サン・ゴバン社やサン・シモン財団で役員を務めたアラン・マンクも同様の見解に立つ。彼は、リベラル・リバタリアンという呼称をマスコミで乱用することで、「68年世代の資本主義」の恍惚感を描いてみせた。
 時代が下るにつれ、不平等と雇用不安と貧困が進行し、リベラル・リバタリアンという取り合わせは、だんだんと疑わしいものになってきた。とはいえ、アナーキズムとリバタリアンの再結合が起きたわけではない。それどころか、両者の隔たりはさらに深まった。アナーキズムのほうは、ますます犯罪と同一視されるようになった。そして、大衆がさらに周縁化され、抑圧がさらに厳しくなった状況への反動として、直接行動による闘争を再開した。逆に、リバタリアンのポジション(ポーズとは言わないでおこう)は、政治・メディア界の内部において、ひときわ流行するようになった。それを示しているのが、哲学者ミシェル・オンフレのオーラの増大である。オンフレは「資本主義のリバタリアン的な運営」を欲すると公言する人物だが、にもかかわらずアナーキストたちは、彼の言う「快楽主義的で無神論的な個人主義」に幻惑されている。
連動する2つの過程
 「リバタリアン」というラベルが多少とも不当に流用されていることに対して、「アナーキスト」たちが文句も言わずにいることは、意外に思えるかもしれない。事実、アナーキストたち自身でさえ、明らかな反動主義者くらいしか「反発」しないアーティストや作品に「リバタリアン」のラベルを付している。このラベルを自分たちの専売特許にしようとするのは、リバタリアンの本義に背くことになると、アナーキストたちは言うだろう。そして、このラベルの乗っ取りや横取りをはかる者が出てくるのは、リバタリアン的な闘争が支持されている証拠ではないか、とも付け加えるだろう。そんなふうに言うアナーキストたちは、「リバタリアン」というラベルが、個人主義的で政治性なき文化還元主義に奪取・吸収されてしまえば、その急進的な批判性を失うことに気がついていないのだ。
 社会党から緑の党へ、さらに革命的共産主義者同盟(LCR)へと渡り歩いた社会学者フィリップ・コルキュフの手によって、リバタリアンという参照軸はその対極にあるもの、つまり資本主義国家の支柱のひとつをなす社会民主主義と結びつけられた(5)。一方、反資本主義新党(NPA)スポークスマンのオリヴィエ・ブザンスノは、ローザ・ルクセンブルクやルイーズ・ミシェル(6)の流れを汲むと自認し、最近再版された「革命アナーキスト」ルクリュの講演録に序文を寄せている。ブザンスノも「リバタリアン」という形容詞を、「社会民主主義」より無難とはいえ、組み合わせとして無理のある別の形容詞に結びつけてはばからない。彼は「ゲバリストにしてリバタリアン」を自称する。命を賭して反帝国主義闘争を率いたチェ・ゲバラへの感謝を表明するのにやぶさかではないが、とはいえ彼の人物像や行動のうちに反権威主義の形跡を見出すことはできない。
 近年フランスでは「リバタリアン」が、この言葉から一般的に連想される拒絶や抵抗の表明には眉をひそめる層にまで流行している。アナーキズムが激しい追及の的になっていることと、くっきりと対照をなす。アナーキズムのほうは、不安をかき立てる「アナーキスト自主管理集団」とごっちゃにされている。これは最近登場した警察用語で、アナーキズムの危険性を強調するものと目されている。リバタリアンは、全面的に文化現象へと還元され、アナーキズムは、徹底的に犯罪視される。しかしよく見ると、この2つの過程は連動しているのであって、驚くことは何もない。
 政治とイデオロギーの立て直しが図られるなかで、「社会厚生(ソシアル)」と「社会関係(ソシエタル)」を対置させる主張が続出している。前者は規律統制や画一化と同じであり、後者はすべてが「解き放たれる」場であるという。こうした主張が示そうとしているのは、「経済的制約」に従うことが、異議申立というかつての価値観を捨てることではないということだ。今や、手近な個性の開花を最大の関心事とする「リバタリアン」なネオ・プチブルは、集団的な自立解放という展望をことごとく、民主主義と法治国家に対する脅威として斥けている。
 ライフスタイルとして捉えられた生活様式だけに限定された非迎合主義には、公認された社会規範やコード体系に矛先を向ける筋合いがもはやない。なぜならば、それらの「侵犯」は個人的なレベルに留まり、制度化され、資金援助され、金儲けの種にされたかたちで、資本主義支配の刷新に加担するものとなっているからだ。それと引き換えに為政者の側は、お目こぼし的な自由の恩恵にあずかる人々が大声で、あるいは暗黙裏に、少なくとも沈黙のうちに表明した賛同のもと、資本主義支配を邪魔だてする可能性のある闘争形式や挙動、ひいては言論の一切の禁止と抑圧に打って出ている。要するに、ネオ・リバタリアンたちは、強化された保守主義に「ネオ」という欠かせない彩りを添えているにすぎないのだ。
(1) 「リバタリアン(libertaire)」という新語が、1850年代終盤に、ジョゼフ・デジャックというアナーキストの辛辣な筆から生まれたことを思い起こそう。デジャックは、当時の共和派のプチブルの政治的妥協を非難してやまなかった。
(2) ただし、「権力なき秩序」は、オルターグローバリズムの一部の思想家が主張するように「権力を握ることなく世界を変える」ことができるという意味では全くない。第1に、世界を変えるためにはブルジョワジーの権力を失わせる必要がある。第2に、アナーキストの観点からすると、世界を変える権力が「人民に対して」行使されることはあり得ない。自己組織化した人民は、権力を代表者に委ねることなく自ら保持するからだ。
(3) こんなふうに片づけられる隙が、フランスの古臭いアナーキストたちの側になくもない。彼らは偉大な先人の崇拝と、トウの立った論争(プルードンとバクーニン対マルクスとエンゲルス)から抜け出せず、マルクスの思想を機構のマルクス主義(政党や国家のマルクス主義)に還元し、リバタリアン的な共産主義の主要思想家たち(アントン・パンネクーク、オットー・リューレ、ポール・マティックなど)を無視している。そして、根深い反マルクス主義のせいで、資本主義の変容に関する唯物主義的分析をなおざりにしているため、何も理解できなくなり、時には一部の子分の下す評価をうのみにしてしまう。そうした子分のひとりが、ステファヌ・クルトワで、自著に基づいて革命の失敗について論じてほしいと、アナーキスト連盟の書店に招かれた。その著作『共産主義黒書』(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト共著、外川継男訳、恵雅堂出版、2001年)は、アメリカのネオコンのシンクタンクから出てきたようなシロモノでしかない。
(4) Michel Clouscard, Neo-fascisme et ideologie du desir, Denoel, 1973, and Le Capitalisme de la seduction, Editions sociales, 1981.
(5) Philippe Corcuff, <<>>, Le Monde, 18 October 2000.
(6) ルイーズ・ミシェルは、アナーキストの活動家。1830年にフランス北東部に生まれ、教師となる。パリ・コミューンに積極的に加わり、ニューカレドニアへの流刑に処された。釈放後も活動を続け、1905年に没する。[訳註]
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年1月号)
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