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2009年2月9日月曜日

注意書きを残すことを条件として、この文書全体をありのままに複製し配布することを媒体を問わず使用料なしに全世界に許可する。






著作権、特許、そして商標。三者三様の別個の法律に関係している三者三様の別個の概念について、それらをひとつの大鍋に放り込んで「知的財産」などと称するのが流行になっている。このいびつで混乱した語は偶然に現れたわけではない。
その混乱から利益を引き出そうという企業のしかけたことなのだ。混乱から抜け出すいちばんの方法は、この語をきっぱりと拒否することだ。

「知的財産」だって? そいつは砂上の楼閣だ

リチャード・M・ストールマン著

著作権、特許、そして商標。三者三様の別個の法律に関係している三者三様の別個の概念について、それらをひとつの大鍋に放り込んで「知的財産」などと称するのが流行になっている。このいびつで混乱した語は偶然に現れたわけではない。その混乱から利益を引き出そうという企業のしかけたことなのだ。混乱から抜け出すいちばんの方法は、この語をきっぱりと拒否することだ。

スタンフォード・ロースクールのマーク・レムリー (Mark Lemley) 教授によれば、「知的財産」なる語の濫用は、1967年に設立された WIPO(World Intellectual Property Organization/世界“知的所有権”機関)にはじまる熱狂であるということだが、ほんとうに一般的になったのはここ数年だ。(WIPO は名目こそ国連の機関ということになってはいるが、その実体は著作権、特許、商標の保持者たちの利権の代表だ。)

この語がもたらす先入観は明らかで、これは著作権、特許、商標を物理的なものにたいする所有権のアナロジーで考えさせるよう仕向けている。(このアナロジーは著作権法、特許法、商標法いずれの法哲学とも相容れないが、専門家でもなければそこまではわからない。)これらの法律はじっさいには物理的な所有権についての法律とは似ても似つかないのだが、そういう扱いにさせるよう、この語を用いて議員たちを誘導しているのだ。そうなることこそ著作権や特許権や商標権を行使する企業の望むところであるから、「知的財産」の生み出す先入観は連中にとって具合がいいわけである。

先入観はこの語を拒否するじゅうぶんな理由となるので、私はたびたび、これらの範疇を総括するほかの名前はないかと聞かれたり、あるいはみんなが自分で考えた(たいていおもしろおかしい)代替案を聞かされたりしてきた。提案には、インプ(IMPs ― Imposed Monopoly Privileges/強制独占権〔訳注: imp には小悪魔という意味がある〕)だとか、ゴーレム(GOLEMs ― Government-Originated Legally Enforced Monopolies/政府主導法的独占強要〔訳注: ゴーレムは土でできた人型の怪物〕)だとかがあった。「排斥権制度 (exclusive rights regimes)」というのを思いついた人もいるが、制限することを権利と呼ぶのは、元の語同様、二重思考の罠にはまっている。

代案にはいくらかましになるようなものもあるが、そもそも「知的財産」という語を別の語で置き換えようとすること自体が間違っている。名前を変えてみたところで、この語のはらむ、より深刻な問題を浮き彫りにするわけではないからだ。すなわち、過剰な一般化という問題だ。「知的財産」とまとめて呼びならわすことのできる代物など、存在しない。幻想なのだ。人びとがこれを筋の通ったまともな話だと考えてしまうのは、この語の濫用がそうした印象を植えつけるからなのだ。

「知的財産」という語は、せいぜい違った法律同士をごたまぜにするがらくた箱といったところだろう。ひとつの語がいろいろな法律に適用されているのを聞けば、法律の専門家でない人間なら、それらが共通の原則に基づいているのだろうとか、どれも似たような働きをするものなのだろうなどと思い込んでしまうというわけだ。

しかし、これほど事実とかけ離れた話はない。これらの法律はそれぞれ別々の起源を持ち、異なる発展をみた。適用範囲も異なれば、規則も異なっており、掲げる公共の政策だって異なったものになる。

著作権法は著作と芸術を奨励するべく立案され、作品の表現のディテールを対象としている。特許法は、アイデアを公表した人は一時的にそれを独占できるようにすることで、便利なアイデアの公表を奨励するよう企図されたものだ。アイデアは対価を払ってでも使うに値するかもしれないし、そうでないかもしれない。

これにたいして商標法は、なにか特定の活動を奨励するよう企図されたものではなくて、たんに購入者に自分がなにを買ったのかをはっきりわかるようにするためのものだ。ところが「知的財産」の影響下にある議員らは、これを広告を奨励するための仕組みへと変えてしまった。

これらの法は独立して発展してきたのだから、その本来の目的や方法論ばかりでなく細部にわたっても異なっている。だから著作権法についていくらか調べてみれば、それが特許法とは違うものだということにすぐに気づくだろう。それこそまったく間違いようのないことなのだよ!

人びとが「知的財産」というとき、もっと範疇の大きいことや小さいことを意味していることは多い。たとえば、富める国が貧しい国から金を搾り取るために不公平な法律を押し付けることがある。「知的財産」に関する法律であることもあるが、すべてというわけではない。にもかかわらず、なじみがあるものだから論客たちはついこの標語に飛びついてしまう。この語を使うことによって、物事の本質を間違って説明してしまう。こうしたものには「法的植民地化」といったような、物事の核心を突いた的確な語のほうがふさわしいのだ。

この語によって混乱するのは法律の素人ばかりではない。法律を教える立場である法学者たちでさえ、「知的財産」という語に誘惑されて分別をなくしてしまい、自分たちの知っている事実に反するような大味な記述をしてしまう。たとえば、ある教授は 2006年にこんなことを書いている。

「現在 WIPO に席を占めているその子孫たちとは異なり、合衆国憲法の起草者たちはかれらの信念に従って、競争を促進させようとする態度を知的財産にたいして持っていた。起草者たちはもちろん権利は欠くことのできないものであると知ってはいたが、それでも、議会の手を縛り、その権限をさまざまな方面から制限しているのだ。」

この記述が引き合いにしているのは、合衆国憲法第一条第八節第八項で、そこでは著作権法と特許法とが正当なものと認められている。しかしながら、この条項は商標法にはなにひとつ言及していないのだ。「知的財産」という語が、この教授を誤った一般化に陥れた。

また「知的財産」という語は、思考をあまりに単純化しすぎてしまう。これら別個の法律が持つ形式上の貧弱な共通性――これとて一部の党派の不自然な特権のためにでっち上げられたものだが――に目を向けさせ、それらの主意が形づくっている詳細(公共に課す制限と、そこから導かれる結論)を軽視させる。この極度に単純化した論点が、あらゆることに「ケイザイ」の視点でもってアプローチするのを助長している。

毎度のごとく、ここでも経済学が、実証されてもいない憶説の売り込みに加担している。ここでいっている憶説というのは、生産量の総額ばかりに気をとられて自由や生き方といったことには頓着しない価値観や、楽曲の著作権がミュージシャンを支えているとか薬物特許が人命を救うための研究に役立っているとかの、たいていはでたらめであるような定説のことだ。

もうひとつの問題は、「知的財産」という語のスケールの広さの前では、さまざまな法律から導かれる個々の条項などほとんど霞んでしまうということだ。こうした条項は、それぞれの法律の詳細に従って決められてきたことなのだが、そうしたものこそ「知的財産」という語が人々に黙殺させようとしていることそのものなのだ。例を挙げると、著作権法が関係することのひとつに、楽曲を共有することは認められるべきかどうかということがある。特許法はこれにはなんの関係もない。人命を救うために、貧しい国に医薬品の生産や販売を安い値段で認めるどうかを議論するのには特許法が紐解かれるが、ここでは著作権法にはなんの用もない。

こうしたことがらのどちらもが本質的に経済だけの問題ではないにしても、これらは互いに似ているとはいえないし、過剰な一般化をする浅薄な経済的視点でもってこの違いを把握できるようになるわけでもない。複数の法律を大味な「知的財産」の大鍋に放り込んだりしては、それぞれをきちんと考える能力は妨げられてしまうことだろう。

ようするに、「知的財産について」述べているいかなる意見も、この怪しげなカテゴリについてのいかなる一般論も、まったくもってばかげているということだ。これらの法律がひとつのことだと思うのであれば、そうした人の意見は大雑把で過剰に一般化されたものから選び出すようなものになるだろう。どれをとってもまともなものなどありはしない。

特許、著作権、商標に関する問題について明確に考えたければ、まず第一歩はそれらを一緒くたにするような発想は忘れて、それぞれを独立した話題として扱うことだ。次に、「知的財産」という語が仕向けるような狭いものの見方や単純化しすぎのイメージは拒否すること。それぞれを独立した別個のものとみなしてはじめて、それらについて正しく考えられるようになるのだから。

それからもし WIPO について見直すときがきたら、まずその名称を変えてもらうよう要求しよう。

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Copyright © 2004, 2006 Richard M. Stallman

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